Masuk石が窓を破ったのは、リディアが「もう一頁だけ」と言った直後だった。
乾いた破裂音。
飛び散る硝子。
次の瞬間、ギルベルトの腕がリディアの肩を抱き、床へ引き倒していた。
「伏せろ!」
部屋の外で兵士たちが走り出す。
椅子が倒れ、机の上の帳簿が雪崩のように落ちた。
投げ込まれた石は、リディアが先ほどまで読んでいた輸送記録の上へ転がった。拳より少し小さい、どこにでもある灰色の石だった。
「リディア」
「大丈夫です」
「動くな」
「ですが、書類が」
「書類は死なない」
強い声だった。
ギルベルトはリディアを床へ座らせたまま、頬や首筋を確かめる。
「怪我は」
「
第90話 守ることと、止めること 石が窓を破ったのは、リディアが「もう一頁だけ」と言った直後だった。 乾いた破裂音。 飛び散る硝子。 次の瞬間、ギルベルトの腕がリディアの肩を抱き、床へ引き倒していた。「伏せろ!」 部屋の外で兵士たちが走り出す。 椅子が倒れ、机の上の帳簿が雪崩のように落ちた。 投げ込まれた石は、リディアが先ほどまで読んでいた輸送記録の上へ転がった。拳より少し小さい、どこにでもある灰色の石だった。「リディア」「大丈夫です」「動くな」「ですが、書類が」「書類は死なない」 強い声だった。 ギルベルトはリディアを床へ座らせたまま、頬や首筋を確かめる。「怪我は」「ありません」「手を見せろ」「本当に」「見せろ」 右手の甲に、細い赤い線があった。 割れた硝子で切ったらしい。 傷と呼ぶのも大げさな程度だ。 それでも、ギルベルトの顔が変わった。「血が出ている」「一滴です」「量の問題ではない」「監査上は、量も重要です」「今は監査ではない」 冗談を言ったつもりではなかった。 だが、少しだけ空気を軽くしたかった。 失敗した。 ギルベルトの目は、笑っていない。 扉が開き、護衛隊長が入ってきた。「殿下。裏路地を逃走した者を追っています。目撃者によれば、黒い外套を着た小柄な人物です」「町の出入口を閉じろ」
第89話 橋の向こうで消えた荷馬車 盗まれた毛布は、隠されていなかった。 町の市場で、堂々と値札をつけて売られていた。「青い縁だ」 マレナが立ち止まり、露店の軒下を指さした。 ハルド村から半日ほど離れた交易町カルネ。 橋を渡った荷物の多くが、一度ここへ集められる。 商人。 荷馬車。 山から下りてきた猟師。 干し魚を売る老婆。 冬支度の品を探す村人。 朝から小雪がちらついていたが、市場は人と呼び声で騒がしかった。 マレナが指した店には、厚手の毛布が積み上げられている。 灰色の布地。 縁だけを染めた、くすんだ青。 雨音基金の救援用毛布には、市場販売品と区別するため、青い縁取りが施されていた。「似た品では?」 セオが声を落として言う。「近くで確認します」 リディアが店へ向かおうとすると、ギルベルトが一歩先へ出た。「私が先に行く」「店主が警戒します」「君が行っても警戒する」「閣下よりはましです」「なぜだ」「鏡をご覧ください」「今は持っていない」「そういう意味ではありません」 マレナが二人を見て、呆れたように言う。「王都の人は、調査の前にいつも喧嘩するんですか」「これは協議です」 リディアが答える。「仲は悪くない」 ギルベルトが付け加えた。「聞いてません」「よく誤解されるので」「リディアま
第88話 字を書けない会計係 王都の帳簿には、字を書けない人間は存在しなかった。 正確には、存在していても記録へ残らなかった。「王都の人は、紙に書いてあれば、届いてなくても届いたことにするんですね」 ハルド村へ到着したリディアが最初に浴びせられたのは、歓迎の言葉ではなかった。 村の入口に立つ若い娘が、腕を組んで監査隊を睨んでいる。 黒に近い茶髪は後ろで一つに束ねられ、厚手の外套には何度も縫い直した跡があった。年齢はリディアより少し下。十八か十九ほどだろう。 その後ろには、村人たちが集まっている。 老人。 子ども。 赤ん坊を抱いた母親。 片足を引きずる男。 誰一人として、笑っていない。「マレナ」 村長らしき老人が、困ったように娘を呼んだ。「王都から来た方々に、その言い方は」「違うんですか?」「違うかどうかを確認するために来ました」 リディアが答えると、娘――マレナは一瞬だけ目を細めた。「言い訳しないんですね」「まだ何が起きたか分かっていませんから」「毛布は来てません」「はい」「乾燥肉は八箱だけ」「帳簿では三十箱です」「薬は四箱」「帳簿では二十箱」「じゃあ、帳簿が嘘です」 あまりにも簡単に言い切った。 リディアの後ろで、北部長官府から合流した救済担当官モリス・ハントが顔をしかめる。「娘。王国の正式記録に対して、根拠もなく嘘などと」「根拠ならあります」「どこにだ」「宿に」
第87話 新婚旅行ではありません 新婚旅行に持っていく荷物として、受領印照合表は少し重すぎる。「こちらの箱は、二号馬車へお願いします」 王宮北門前の荷積み場で、リディアは木箱を指さした。 朝霧の中、荷運びの兵士たちが忙しく動いている。北部監査隊の出発まで、あと半刻。馬車は四台、荷馬車が二台、護衛騎兵は十二名。 その後方には、なぜか花束を抱えた人々まで集まっていた。「リディア監査官」 セオが木箱を持ち上げ、顔をしかめる。「これ、本当に書類だけですか」「はい」「石板が混ざっていません?」「北部三郡の過去五年分の救援物資記録と、運送商会別の契約書、それから受領印の写しです」「つまり書類ですね」「最初からそう言っています」「書類が石より軽いとは限らないと、今日学びました」 セオが箱を抱えてよろめくと、隣にいた護衛兵が慌てて手を貸した。 その向こうでは、ロザリーが荷物の一覧を読み上げている。「監査記録箱、十二。筆記具箱、二。簡易計量器、一。布地検査器具、一式。受領印照合用拓本紙、五百枚」「五百枚も必要ですか」 セオが聞く。「不足する可能性があります」「では、新婚旅行の衣装は?」 近くで見物していた貴婦人の一人が、悪気なく尋ねた。 リディアは振り返った。「何の衣装でしょうか」「ですから、北部での晩餐会や、雪景色をご覧になる時の」「視察用防寒外套が二着あります」「そうではなくて」 貴婦人は笑った。「王弟殿下との新婚旅行なのでしょう?」「違います」
第86話 王弟妃の偽署名 無実を証明する書類ほど、読まれないものはない。 翌朝、監査局が発表した声明は、王都に六百部配布された。 読まれたのは、おそらく半分ほど。 内容を正しく理解した者は、さらにその半分。 残りの者たちは、見出しだけを読んだ。『王弟妃、偽署名を主張』『消えた毛布百枚』『雨音基金に重大疑惑』「主張ではありません」 リディアは新聞を机へ置いた。「筆跡照合によって不一致を確認しています」 向かいの席で、セオが苦い顔をする。「新聞としては、『筆跡照合によって本人の署名ではないと確認された』より、『偽署名を主張』の方が短いのでしょう」「短ければ、事実を変えてよいのですか」「よくはありません」「では、訂正要求を出してください」「既に三社へ出しています」 ロザリーが答えた。「一社は訂正版を午後に発行予定。二社は『調査中である以上、表現として問題ない』との返答です」「問題があります」「抗議文を準備しています」「お願いします」 ロザリーの仕事が早い。 ただし、噂はもっと早かった。 王都西地区では、雨音基金の募金箱へ入る硬貨が、前日の三分の一まで減った。 貴族街の二つの商会は、調査結果が出るまで定期寄付を停止すると申し出た。 匿名で届いた手紙には、『王弟妃の名を使えば、監査官自身が監査を逃れられるのではないか』 と書かれていた。 さらに、悪意だけではない手紙もあった。『少額ですが、亡き夫の遺した金から寄付をしております。疑
第85話 届いたことになっている毛布 雨音基金に届いた最も重要な申請書は、申請書ではなかった。「……これは、何でしょう」 セオが机の上の布切れを見下ろした。 元は穀物袋だったのだろう。粗い麻布の端が不揃いに裂かれ、土と煤で薄汚れている。 その中央に、炭らしきもので文字が書かれていた。『毛布百枚、届いたことになっています。村には一枚もありません。字が違っていたらごめんなさい。』 差出人の名前はない。 村名も、書かれていなかった。 ただ、布切れと一緒に、青い糸を七回結んだ短い紐が入っていた。 リディアはそれを指先で持ち上げる。「七回」「何かの暗号でしょうか」「分かりません」「悪戯という可能性もありますね」 セオが慎重に言った。 悪意があるわけではない。ただ、証拠として扱うにはあまりに情報が少なかった。 ロザリーは既に記録用紙へ書き込んでいる。「到着時刻、第三刻十五分。封筒なし。古穀物袋と思われる麻布一枚、青色の紐一本」「紐の長さも測りますか」「測定済みです。十四・二寸」「早いですね」「必要ですので」 リディアは麻布の文字をもう一度読んだ。 字が違っていたらごめんなさい。 その一文だけ、他より小さい。 書いた者は、毛布が届かないことより、自分の字が正しくないことを恥じている。 助けを求める時ですら、先に謝っている。「どこから届いたものですか」 リディアが尋ねる。「王宮西門の救済箱へ入れられていました」







